忘れ物

OK’s SQUARE 4thライブを終え、残ってくれた方達と乾杯し
いい気分でおしゃべりを。
原さんと香真良くんはウッドベースを車で運ぶため
早々に引き上げた。
素敵な余韻を残して帰ったお二人。
それだけで朝まで行けそうな気分だったが
翌日の「猫」とのジョイントが気になり
今夜は早めに帰るべし、と心を鬼にして店を後にした。
皆さんとお別れし、終電には間に合ったのだが
体力温存の意味も含めタクシーで帰ることにした。
荷物をトランクに入れ感じの良い運転手さんと話ながら家路に。

頂いたお花や紙袋、バッグを両手に玄関を開けた途端
ガラガラがないことに気づく!
あわわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あの中には明日の譜面と
化粧品が、衣装も靴も・・・どうしよう。
すぐにタクシー会社に電話をしたが誰も出ない
どうしよう、何度もかけても・・出ない

こういう時には「U」さんだわ、と思い
メールをいれたらすぐに返事が来て(頼りになるんです)
「タクシー近代化センター」なるものに連絡せよ、とのこと!
急いでかけると「あ〜最近できた会社だから、
夜は人がいないかもしれませんねえ、明日の朝かけたらどうですか〜」
「いや、あの明日仕事で使うものが入っているので
なんとかなりませんかっ」ならないっちゅうの!
「U」さんからメールが届き説明したら
「仮眠しているかもしれないので、あきらめないで電話を入れてください、
どんな会社でも必ず人はいますから」と言われ
しつこく電話をいれたら3時前に連絡がつき、事情を説明
「普通なら宅急便で送るのですが」それでは間にあわない。
取りに行きますがどちらですか?と聞いたら
「西新井です」・・にしあらいかぁ、遠いけど仕方ない。

翌朝7時頃(さすがタクシー会社は早い)電話があり
「今日、ロイヤルパークホテルまで届けます」と!!
あ〜捨てる神あれば拾う神あり(使い方合ってます?)
あちらもトランクに入れたのに渡し忘れて申し訳ないと言ってくれ
なんとかリハーサル前に届けてもらうことが出来、胸なでおろす。
間に合わなかったらすっぴんで本番に出るところ(^^;)
シャレにならない。
こんなことなら電車で帰ればよかったなんて思いながら
でも、親切な運転手さんで良かった(^^)/

何事もなかったように迎えた「猫」とのライブ
ホテルの20階、都会のど真ん中ならではの景色
乱立するビルの向こうの山に沈む夕日が美しく
東京タワーもライトアップされて・・

大騒ぎしたことも忘れ、出番まで
ロマンティックな夜をひとり楽しんだ♪


LIVE at HIROSIMA

広島は母の故郷でもあり私にとっては縁の深いところである。
何年ぶりだろう‥リハーサルまで少し時間があったので
とことこ歩いて今夜の会場「J’s Bar」に着くと
香真良くんはすでに到着、東京からの旅だった。
元気そうな顔を見て安心。
オーナーのkanpachi さんにご挨拶をしリハにとりかかる。
本番はこちらの様子を見ながら音を臨機応変に対応してもらい
kanpachiさんに感謝。
15年ぶりにお会いするミニバンドのお二人も
お忙しい中早めに来てくれて一緒に歌う予定の
「夏休み」を合わせた。
私にはキーが高いのでリードボーカルはkanpachi さん。
緊張したと仰有っていたが味のある歌声で聞かせてくれた。
田辺さん、井口さん
「もう長いことやっとらんのやけん〜」
などと言いながら‥とんでもない
当時と変わらないベースの音、
リードギターのフレーズは懐かしくつい頬がゆるんでしまう。
本番はあっと言う間にやってきて大きく深呼吸をして
ステージに立った。
香真良くんのギターを耳と心で感じながら歌えるのは幸せだ。
ライブ終了後はミニバンドのお二人を交え地元の方
遠方から来て下さった方達と話し飲み
楽しい時間が過ぎて行くのを惜しみながら
このままずっと続くかのようにとぎれることなく
そして、同じことを何度も確認するように話した。

もう一つのサプライズ
「春の風が吹いていたら」の作者である
伊庭啓子さん、まさか来て下さるとは思いも寄らず、
当日もお忙しい中、足を運んで下さったこと
本当に驚き、嬉しかった。
家庭の主婦として良きお母様として頑張っておられるとのとこ。
一度もお会いする機会もなくこのまま過ぎてしまうのか
と思いつつ、今回広島に行くチャンスに恵まれ
実現したらいいなとかすかな期待を抱いていた。
強く願えば叶うのだと子供みたいにはしゃいでしまった。
その日は体調が悪く1部を聴いてお帰りになられた。
ゆっくりお話は出来なかったが
お目にかかれ、これ以上何を望むことがあろうか。
そんな伊庭さんから素敵なプレゼントを頂戴した。
手渡された白い封筒の中には
綺麗な和紙の便箋に手書きで書かれた
「春の風が吹いていたら」の元の詩が入っていた。
この歌の詩のように優しい文字で
「春の風が吹く時に」と‥。

待っている時間は長く、過ぎてしまうのはなんと早いことか。
ゆうべの心地よい余韻と共に目覚めたが喉がいがらっぽい。
大きな声でしゃべった報いだ。大いに反省しうがいと
のど飴で喉を潤す。
大阪までは地声でしゃべらないように気をつけよう。

近頃はお悔やみの席でしか会うことがなくなった
いとこ達とも会えたし
「ふみちゃん」というお薦めのお好み焼き屋さんで
野菜たっぷりの「広島風お好み焼き」を食し大満足。
広島駅へ向かうタクシーの中からは市電と遭遇。
町中を流れるように走る姿は人々が生き生きと
暮らしている様子がうかがえ大好きな光景だ。
旧式の市電も発見し嬉しかった。
鉄道マニアの香真良くんも喜んでいた。

子供達がまだ幼い頃、原爆ドームへ行く旅を計画していたが
都合で中止になりそのままになっていたことを思い出し
そんな話しをしていたら新幹線に乗るまでまだ時間もあるし
行ってみようと言うことになった。
タクシーを降りて一歩足を踏み入れた途端
涙が溢れ出た。
慰霊碑に手を合わせ目を閉じた。
止めようのない涙、コントロール不可能。
ドームをぐるっと廻ってタクシーに戻り駅に向かった。
大阪へ向かう新幹線の中で
いつか必ず資料館にも行こうと心に決めた。
ありがとう広島!
またいつかきっと♪


まる六 in OKAYAMA

桜の開花便りを気にしながら新幹線で岡山に向かった。
「まる六」久し振りの地方でのライブ
山陽新聞の皆さんに温かく迎えていただく。
休憩なし、アンコールも入れて20曲。
本番数日前までに「選曲、曲順」は六文銭当時と変わらず
恒平ちゃんが決めて、問題なければ決定
まる六は合議制。
サウンドチェックが始まる。
当たり前の事だが毎回違う環境の中で、
ベストパフォーマンスが出来るよう
小室さんが中心になり最新の注意を払いながら薦めていく。
(私は黙ってついて行くだけである)
お二人のギターの音のチェックから始まり
ボーカルも交えてという順序。
ミキサーの方とコミュニケーションをとりながら
微調整をしていく。
さすが小室さんとしか言いようがないやりとりだ。
ご存知のようにまる六は生の音へのこだわりがあり
3人の立ち位置もお互いのギターの生音が聞こえるように
考えてのことだ。
故にモニターからの返しがなくても
(会場の環境にもよるが)成立する。
正確に言うと、私の場合二人のギターの音が聞こえて
こないと不安なのだ。逆に言うとそれがあれば安心して歌える。
毎回、次への課題をもらいながら歌っていくのだが
目指すところは限りなく遠い。

2007年3月30日(金)
「まるで六文銭のように」Live in OKAYAMA
山陽新聞社 さん太ホールにて

1  夏・二人で
2  私はスパイ
3  インドの街を象に乗って
4  ゲンシバクダンの歌
5  面影橋から
6  私は月には行かないだろう
7  きみは誰かな
8  引き潮
9  ただあたたかくカラッポに
10 無題
11 ホワンポウエルの街(おけいソロ)
12 地下書店(恒平ちゃんソロ)
13 What a Wonderful World(小室さんソロ)
14 雨が空から降れば
15 雨の言葉
16 雨が降りそうだな
17 はじまりはじまる
18 石と死者
19 街と飛行船
encore
20 サーカス

アンコールをいただき
岡山の皆さんと約2時間、会場に流れる空気は
なんとも言えず温かく優しかった。
ここからは楽屋話し
いつもPAの方、照明さん舞台監督の方に
曲目をお渡しするのだが、たまたま私が鉛筆で書いたもの
しかも、書き直しやら何やらで見づらいものをお渡ししてしまい
「ホワンポウエルの街」が「ポアンポエルの強さ」という
タイトルになっていた。間違われたのはこちらの責任でもあり、その事を言いたいのではなく
ポアンポエルという言葉からどんどんイメージが膨らみ
恒平ちゃんから「ポエルくん」という架空の人物が
想定されたのだ。その発想こそが及川ワールドなのだと
身近に居る人間としてお伝えしたかった。
さてご本人は憶えているだろうか。


北海道・旅日記③

雪の少ない旭川、タクシーで町を抜けると
あっと言う間に「アーリータイムス」の煉瓦の建物に到着。
あの街のあそこにあるのが似合っている。
「こんにちは〜」とドアを開けると他のメンバーはすでに集合。
野澤さん‥変わらない笑顔、去年の夏に戻ったような
気持ちにさせられる。

床から天井まで、レコードや本がぎっしり。
野澤さんの思い入れが詰まった貴重なコレクションを
指でなぞる。
そこは70年代の音楽の玉手箱だ。
さっそくリハーサル、二度目ということもあり
アーリータイムスならではの大陸的なテンポで始まっていく。
全員リラックス
真冬の旭川での2度目のライブに来てくださるだろうか‥
そんな心配は無用だった。
たくさんの方の暖かい拍手に迎えられ
猫「片思いのブルース」でライブの幕は上がる。

2階が控え室。
屋根裏のような部屋は目の位置に頑丈な梁が縦横に走っていて
その上に確かハイネケンだったかな、空瓶が並べてある。
これも野澤さんのこだわりなのか。
テーブルとソファがあり、細長い窓からは隣の建物と空が見える。
着替えも済ませソファに座り、階下から聞こえてくる
「猫」のサウンドに耳を傾けながらストーブの赤い火を見ていたら身体がどんどん沈み地球の真ん中まで行きそうな感覚‥
夢を見た気がした。
どんな夢だったのか‥
ドアが開き、野澤さんが「だいじょうぶ?」と声をかけてくれ
我に返った。
さて、そろそろ出番、ゆっくり階段を降りて行った。

猫と一緒の時はギターを弾くので
いつもより緊張感が増す。
中川イサトさんが
「弾き語りをするときは脳の右と左を
歌とギターに分けたらいいよ」
と教えて下さったが、思うようにいかない。
私の脳味噌はひとかたまりになっているようだ。
猫とのジョイントではポップなサウンドなりアレンジで
「バンド」で歌う楽しさを教えてもらっている。
まだまだ進化しなくてはならないけれど
まる六でのそれとは異なる楽しさを味わいながら
アンコールを迎える。
2曲の予定が4曲に。

北海道ツアー初日の締め括りは
野澤さんの手作りのポテトサラダ(カウンターの中で猫のMCに
つっこみを入れながらジャガイモを茹でていたのを私は、見た)や出汁のうまみがたっぷりの寄せ鍋などテーブルに乗りきらない程のご馳走と乾杯と笑顔に満ちていた。
時折、熱気で火照った身体を外に出て冷ます。
真冬の旭川はぽかぽかと暖かだった。


北海道・旅日記②

旭川の空港からバスで市内まで約30分。
さすがに雪は降り積もり銀世界である。
途中下車する人は地元の方と見受ける。
駅前で殆どの人が降り、私達もそれに続き荷物を抱え
ホテルに向かう、バス停からは目と鼻の先、
チェックインを済ませ
お腹がすいてきたので町に出ることにした。
札幌在住のKさんから
「ラーメンなら梅光軒ですよ〜」とタイミング良く
メールが届き、そのお店を目指す。
道路の端にかきよせられた
水分の多い重そうな雪に足をとられないように
転ばない為にはかかとから踏んじゃダメと
教えられたことを反復しながらゆっくり、でもちょっと
急ぎ足で美味しいと評判のラーメン屋さんに向かった。
道路の角のビル、赤い旗が目印ですぐにわかった。
地下にあるそのお店は2時を過ぎているのに
待っている人がいて、期待に胸膨らむ。
すぐに席を用意してくれカウンターに座り
「味噌バターラーメン!」を注文。
やっぱ北海道と言えば味噌バターでしょ、てなことを
言いながら常ヤンと並んで待つ。
カウンターの向こうは活気にあふれ
親父さんらしき人と息子さん、お客の様子を見ながら
手際良くラーメンを作り、若い女の子が
「おまちどうさま〜」と軽々運んで行く。
とても良い流れで動いているのがわかる。
内山くんは「俺、ちょっと町歩いてくる」と別行動。
石山君は飛行機会社のミスなのか本人の勘違いなのか
予定より1便遅れ、ふふ、らしいなあ、なんて。

ふと、他のお客に出すもやしてんこ盛りのラーメンに目が行く。
あれは野菜ラーメンだわ‥メニューにあった、
あっちにすれば良かった、と行く先を目で追いかける‥。
慌てるとろくなことはない、などと思っていたら!
なんと同じものが目の前に
「はい、お待ち!味噌バターラーメンです!」と
二人、顔を見合わせて良かった〜笑顔&ピースである。
炒めたもやしとタマネギがなんとも美味しい。
バターとお味噌のハーモニーが抜群。
あ、写真撮るのを忘れた‥気付いたときは
富士山のように乗っていたもやしはほぼなく
一応撮ってはみたものの
お見せできるしろものではなかった‥

写真と言えば飛行機の中でバッテリーを落としてしまった。
カメラの設定をし直す必要があったが
空から見る景色は待ってくれずそのまま写したら
帰ってからが大変!PCに取り込んだ筈の写真が見つからず
あちこちクリックしてようやく2002年1月に保存してあるのを見つけた。
「あの時、設定し直していたら
こんな苦労しないで済んだのに」
「いつものことだわ‥」ともう一人の私がつぶやいていた。

4時にはアーリータイムスに入ってリハだ。
札幌ラーメン‥あれ?旭川ラーメン‥?を食べて暖まったけど
夕刻に近づくとさすがに冷えてくる。
帽子と手袋とマフラーがやっと役にたった。

つづく‥


北海道・旅日記①

約7ヶ月ぶりの北海道。
待っている時間は待ち遠しく、しかしある瞬間から
ビデオテープの早送りのように瞬く間に過ぎて行く。
初めての冬の北海道、雪景色を想像し
前回お手伝いいただいた方々の顔を思い浮かべながら
支度にとりかかる。
今回はギターもお供に連れていくので
なるべく身軽に、でも旭川はマイナス20度になるかもと
判断が右に左に揺れ時間だけが過ぎて行く。
帽子、マフラー、手袋
厚手のタートルネックのセーターは必要だし
下着もヒートテック?なる物を、靴下、シワにならない事が
条件の衣装に靴‥化粧品
冷たい風、舞い散る雪、積もった雪道に足をとられたら‥
北の大地のイメージが膨らみあれもこれもと
荷物が増えてバッグに入らない。
旅慣れていないのである。
「どうしよう」
手を休めパソコンを立ち上げ天気予報を見る
旭川はマイナス6度、これならそんなに寒くないかも。
それに室内は暖房設備が行き届き暖かいと聞くし
そんなに歩くこともないだろう。
荷造りは一からやり直しなんとか収まった。

翌日、東京は晴れ、羽田を少し遅れてを飛び立った。
寝たのが3時で寝不足、飛行機の中で寝るつもりが
眼下に見える景色の美しさに心うばわれ
小さなアクリルの窓におでこをくっつけ、食い入るように見てしまった。
東京アクアラインが目に入る。
途中から道路がなくなっているのに驚くが
海の中にもぐっているらしい。
大丈夫なのだろうか。
利根川、霞ヶ浦、本州を西と東に分けるように山々が連なり
山頂の尾根が見える、川があり畑があり点在する家々は
2㎜角ほどの大きさにしかみえないけど
四季折々自然と共存しそこに暮らしている人々に思いを馳せる。
上空から見る日本列島は豊かな自然に恵まれ
圧倒的に美しく愛おしい。
都会暮らしに慣れ便利な生活に慣れてしまった私ですら
すべての生き物を守らなくてはと思う瞬間だった。
雲に覆われて見えなかった蔵王、客室乗務員が
「見えましたか?」と笑顔で声をかけてくれたのが嬉しかった。

「そろそろ旭川に向かって高度を下げます、旭川の天候は曇り、
マイナス2度、今一度ベルトをおしめ下さい」とアナウンス。
外はいつのまにか白とグレーが交互のモノトーンの雪景色
パウル・クレーの絵のようだ。
そんな絵、なかったかな。

つづく‥


ともだち

日本列島、冬の嵐の日
約1年ぶりに大阪を訪れた。
前夜から支度をはじめ、と言っても一泊。
荷物は少なく身軽で行こう。

中学1年生4月、桜は咲いていたのかしら。
入学式の日、縁側に座った私はおさげ髪
父が庭さきから撮った写真が古いアルバムに残っている。
大きめのセーラー服は、心の成長とアンバランス。
真新しい手提げカバンや、おろしたての運動靴も所在ない。
小学生の幼さの残る私達は同じクラスで共に
中学生活をスタートした。
たった1年間、同じクラスだった。
あれから40年‥長い時間が流れているのに驚いてしまう。
親にも話せないことをたくさん話し合ってきた
ヒソヒソ ゲラゲラ
世界中の誰よりも互いのことを知っている、と思っている。
私達は友人として濃密な時間を過ごしてきた。
長い間連絡を取り合わないないこともあった。
仕事をしながら子供を育て、妻、嫁とこなしてきた彼女は電話をする余裕もなかったろうと思い返す。
時間が二人を隔てても声を聞くと一瞬のうちに
あの頃に戻れることが嬉しかった。
「もしもし、元気?」
会えなくても繋がっていることを耳から身体を通して
感じたかったのかもしれない。

絵が好きだった少女は大阪でギャラリーを営むようになった。
京都在住の陶芸家に嫁ぎ 男の子が一人、立派に成人した。
姑を見送り、夫を去年亡くした。
新年1月7日南船場から福島区へ「移転開廊披露パーティー」に参加した。
1929年に建てられた「メリヤス会館」繊維の街大阪の当時の繁栄を思い興させる建物の1階にそれはある。
古い建物と展示してある現代美術作家の作品との
ギャップが面白い。
越して間もないのにすでに彼女が明らかに存在し
晴れやかな場にゆったりとした空気が流れていた。
これこれ、このリズムにどれ程私は救われただろう。
大勢の来客を見て、ぶれずに生きて来た彼女の生き方を思わずにはいられない。
挨拶に動き回る友人の後ろ姿を追いかけながら
私は幸福感に満ちていた。
その夜は彼女の自宅に泊めてもらい炬燵に足を入れ
夜中まで話しの尽きることはなかった。

新幹線の車中で活躍する筈のiPodを忘れ品川駅で買った雑誌に「脳を鍛える練習帳」という特集に惹かれ試していた。
次のページをめくろうとし顔を上げ
ふと窓から外を見ると「虹」が目に入った。
広々としたベージュ色の田圃の真ん中に
大きく半円を描いていた。
その日は3連休の真ん中で新幹線も満席、隣には若い男性がボールペン片手に本を読んでいた。
「あ、虹‥」と思わず声を上げてしまったが
気付いた様子もなく、いや、知らない振りをしてくれたのか窓側に座っていた私は消え入るまで
虹を見続けた。何人の人が気付いただろう。
皆に見てもらいたい衝動に駆られたが余計なお世話か‥と ひとり楽しんだ。
去年は穂高でまん丸な虹を、今年はお正月に虹を‥
友人のギャラリー移転という人生の新しい船出に
ふさわしい晴れやかな気分で大阪に向かった。

思えば六文銭も1年、友人とも1年。
1年という時間は私にとってキーワードかもしれない。

LADS GALLERY(ラッズギャラリー)
〒559-0003
大阪市福島区福島3−1−39メリヤス会館1F
TEL:06-6453-5706


映画のこと‥

映画館に行って映画を見るようになったのは
10年ほど前かな、子供達がそれぞれ大きくなり私が居なくてもさほど、問題なく、
むしろ居ない方が都合が良くなってきた頃だと思う。

お茶屋さんをしていた親戚の家の隣が映画館だった。
小学校に入る頃。
切符売り場の窓口に顔が出るか出ないかの背丈
こんにちは!と挨拶してそのまま映画館に入っていく。
もぎりの人とは顔見知りだったが、そう何度も見逃してくれる筈もなく、腰を低くし見えないようにささっと侵入しちゃっかり2階の桟敷席に座り身を乗り出し見入ったものだ。
チャンバラ映画が殆どで、「大川橋蔵」や「中村錦之助」が(敬称略)全盛の頃、物語は勧善懲悪、見終わってスッキリ気分爽快な映画。
映画館から出た瞬間、従兄弟たちとチャンバラが始まる。
子供達が騒いでも叱られない広場があり、
近所の人の温かい目がそこにはあった。
昭和30年代の町の風景だ。

中学生の頃見た「サウンドオブミュージック」は
大好きな映画の中の1本で何度映画館に足を運んだか。
確か70?映画の走りだったので、電車で難波まで出かけて行き大きなスクリーンで見たあの瞬間の心の高揚は今でも身体のどこかに残っている。

スイスの山々の素晴らしい風景、
ジュリーアンドリュースが歌いだす
「サウンドオブミュージック」空撮でどこまでも広がっていく。
平和な世界を感じさせる冒頭のシーンだが
物語の背景には戦争とナチスが深く関わってくる。
70?カラー映画
今で言うハイビジョンを初めて観たような美しさだった。
1964年製作 第38回アカデミー賞 作品、監督、編曲、音楽、編集賞、5部門受賞。
1965年 日本 公開。

映画館には何故か一人で出かけて行った。
クロードルルーシュ監督の「男と女」確か満員で立って見た。
当時立ち見は特別なことではなかった。
アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニアン‥
10代でこの映画は、おませだったかな。
大人の世界を覗いているような感覚とあこがれ‥
背伸びしていたころだ。
モノクロとカラーの映像が二人の心を語り
フランシス・レイのボサノバっぽい音楽がゆっくりと
正体不明の何かを掻き立ててくれたのは確かだった。
1966年製作 第39回アカデミー賞外国映画賞受賞、オリジナル脚本賞 受賞

日本映画が斜陽になっていくなか
任侠映画と「男はつらいよ」は日本人の心を捕らえて
離さなかった。

その後私は子育てに追われ
レンタルビデオも観る気持ちにはなれず
当然映画を観に行くことも出来ない時間がずっと続き
約10年前にさかのぼるのだ。

私が再度、映画館に行って映画を見るきっかけを
作ってくれた人が何人か居る。
その中でもB氏は年間120本以上の映画を観る人だ。
A級、B級、国を問わず‥
映画評論家でもない、バーのご主人だ。
映画がどんなに面白いか 人生においてどのような
エッセンスを与えてくれるかを、情熱を込めて話してくれた。
いや、今もそれは変わらず、映画を観たらその人のところに走って行きたくなる‥。
いい映画も、そうでもなかった映画についても一杯飲みながら語り合う楽しさ‥笑い、怒り、涙し
そこには映画を見た人の人生も重なり
いつか旅した風景や記憶、夢、明日への希望
あらゆる感情を呼び起こしてくれる。
大人の男が目頭を熱くする姿を階間見るのはなかなか
いいものだ。
そんなことが楽しみを百倍にしてくれるのかもしれない。
1年に私が見るのはほんの20本前後だが
この楽しみが有る限り
これからも映画館に行って映画を見続けたいと思う。


だんじり祭り&娘

去年まで9月14日15日の二日間が
わが故郷のお祭りだったが、今年から3連休にということで「だんじり祭り」は16日17日となったそうだ。

物心ついたときから太鼓と鉦と笛の音を口ずさみ
太鼓の練習はダンボール。
4人兄弟の末っ子の私だけが、目の色変えて二日間
だんじりの綱を持ち朝から晩まで曳いていた。
走りながら「えんや〜そうりゃ〜!」のかけ声。
家に帰るのはお昼ご飯と夕飯の時だけ。
試験引きから宵宮、本宮と‥。
だんじりと共に大きくなったと言っても
過言ではないくらい私たち「きしわだっこ」は
だんじりを愛している。
どこのお祭りもそうであるように地元の人々に愛され
その地域の文化である「祭り」を継承していくのだろう。

祇園祭の持つ圧倒的な品位と優雅さ、歴史においても
比べものにならないが、300年という時代を
生き抜いてきたのは市民の熱い思いに支えられている。
歌舞伎の鳴り物が好きなのもそんな子供時代が
背景にあるのかもしれない。

そんなに好きなお祭りなのに
もう何年見てないだろう。
そんな私を差し置いて(笑)
娘がひとり新幹線に乗って一路
岸和田へ行ってしまった〜。
うううらやまし。
おみやげとおみやげ話を持って帰ってきた娘は
意気揚々と‥心配していたお天気にも恵まれ
二日間、堪能したようだ。

娘は今回何度も目の前でだんじりの事故を目撃したそうな。
しかしながら、地元の人間にとっては民家の軒先を
だんじりが削って走るのは特筆すべきことでもないのである。
今でこそ全てのだんじりは一方通行で曳航するが
子供の頃は、あの狭い道を相互通行。
すれ違うときに色々なアクシデントがあり、ま、早い話が,血気盛んな青年団の若者がケンカを始めたりするので
だんじりを引っぱる綱の、先の方を持っている子供達はそんな様子をいち早く察知し(自然と備わるのが不思議)
蜘蛛の子を散らすように逃げる。
そして、収まった頃に戻り、何事もなかったかのように
又、かけ声をかけながら町中を走り回るのである。

私は見た事がないが「岸和田ケーブルテレビ」が
できたそうで、お祭りの日はもちろん
それ以外の日もほぼだんじりの情報が流れているとか‥。
そんな町で納得!

それぞれの町の人たちが1年かけて準備したお祭り。
だんじりを愛し、誇りを持ち、秋のこの日に披露する。
かかわった人達の目は輝き力に満ちている。
皆で無事に祭りが終わるよう祈願する。

夜は提灯に火を入れ、ゆっくり歩いての曳航。
昼間とは違い幽玄な美しさ、遠い昔に思いを馳せる。
二日目の夜、だんじりを小屋に納め別れを惜しむ。
祭りが終わり、仲間と肩を組み去って行く
はっぴ姿の若者の背中が切なく映る。

明日から、また来年の秋に向けて準備が始まる。

Photo by Aya


mixiくん

今、噂のmixi なるものに挑戦した。
恒平ちゃんが「まるで六文銭のように」の
コミュニティを立ち上げるというので思わず反応し
イヨッ!てな感じで参加した。
ものすご〜いアナログ人間な私であることをすっかり忘れ‥。

相対するデジタルな世界は、やけに自由に遊んでいる印象。
「カラッポ日記」でさえ更新が遅いとおしかりをうけるのにだいじょうぶだろうか‥未来は未知数(^_^;)
まあ、のんびりマイペースでいこうかな。

追記:mixiに参加している皆さん!
「まる六」のコミュニティも是非覗いてみてくださいね。